おばあちゃん先生は、うつらうつらとさせてくる声で授業をしている。
板書はしないタイプの先生。
まっさらなままのホワイトボードに、視線は定まらなくってゆらゆらする。
開け放した窓の外に、自然と目がいく。
日本史の授業なのだけれど、この先生はいつも、授業の半分ほどを、雑談に使っている。
今日は江戸時代の文化がテーマだった。
最初は教科書通りに進んでいたのが、お寺の話からお坊さんの話へ、段々彩の好きな方に移ってきたと思ったら、大奥まで話が飛んじゃった。
先生の雑談のときは、つい集中が途切れてしまう。
初めの頃こそ、きちんと全部聞かなきゃと頑張っていたけど、こうも毎回話が飛んでいくと、ついていくのも根気がいる。
五階の教室からは、グラウンドの周りを囲む木々が上からよく見えた。
この前は桜が満開だと思ったばかりなのに、もう緑の元気な葉っぱになっている。
熱のある日差しは心地良い。
生きている感じがするから。
ぎらぎら暑くなる前の、今この時期がきっと初夏というやつだ。
意識して、忘れないように、覚えておかないと、気付かないうちに季節は移り変わってしまう。
授業が終わった後は、大学からそのまま会社に行き、花音ちゃんと合流した。
今日は二人でラジオの収録がある。
タクシーに乗って、浜松町まで。
こうして二人の仕事をするのも久しぶりな感じがする。
週末のライブはもちろん全員でやるし、リリースイベントはメンバーごちゃまぜでやることが増えた。
「花音ちゃん」
花音ちゃんはスマホをいじってる。
昔の花音ちゃんは、ただ見てるだけで楽しかったのに。
そんな風に感じるのは、妙に構って欲しい気分だからだと思う。
こういうときに、花音ちゃんの興味をひきそうなことを言えないのがもどかしい。
花音ちゃんが、美術好きだったらなあ。
お笑いとかアイドルとか、その大好きを、ほんのちょこっとだけ、彩の美術にちょうだい。
仏像さんでもお寺でもいいな。花音ちゃんとそういうこと話せたら、すっごい幸せだ。
花音ちゃんはおたくだから、一度ハマったら、すぐに彩を飛び越して、深い深い美術の世界にいっちゃいそう。
そしたら、彩が花音ちゃんに絵のことを教わるのかな。それ、いい。すごくいい。
一緒にフランス旅行して、オルセー美術館や、ルーヴル美術館に、行ったりする。
きっと花音ちゃんは、本物を目の前に興奮しちゃって、夢中で解説なんかを始めちゃいそう。
「……どしたの」
空想に浸ってた彩を、花音ちゃんは人見知りっぽい顔で見てきた。
運転手さんが乗ってるから、それもわかるけど。
もっとあったかい声をしてよお。
好きなもののことを話す花音ちゃん、いつもあったかい声で話す。
今はそういうのが聞きたい気分だよ。
「今日授業でさ」
「うん」
「先生がずっと大奥の話しててさ、すごい長くて、大奥は女の人同士も恋愛したんですよーとか、話それちゃって、歴史の授業だったんだけどさ、それでほとんど授業半分くらい使っちゃってさ」
「…そうなんだ」
反対のドアにくっつきそうなぐらい、ぎょっとしたように寄っていた。
彩の「スイッチ」が入ったと思ってるんだ。
花音ちゃんは彩が美術の話をしようとしたりすると、もう真面目に聞いてくれなくなる。
ただふつうに話したかっただけなのに。
急におもしろくなくなって、そこからはもう無言になった。
やることは特にないのに、真似してスマホを出してみる。
寡黙な運転手さんと、ルームミラー越しに目が合う。
どんな風に思われたのか、少しだけ気になった。
帰りのタクシーは、私が助手席の後ろ、花音ちゃんが運転席の後ろだ。
今日は一日が長かった。明日は今日よりもっと長い。
そう思うと急に気が抜けてしまって、だらっとしていた。
花音ちゃんが、彩の方を軽く見た。
目が合う。
眠さもあるけど頷く。
ややこしいことは無しで、ごめんだとかいいよだとか、いちいち一言付け加えなくても気持ちが通じるのは、すごく楽だ。
「さっき、大奥の話してたでしょ?」
「うん」
「それみたいにさ、もしうちらが大奥いて、花音が、将軍より女の子が好きって言ったら、どうする?」
「そんなの昔からじゃん」
「まあね」
それだけ話すと、花音ちゃんは、またスマホに戻っちゃった。
一体全体何してるんだろう。そんなに調べごとしてるの。
「そしたら、あや、花音ちゃんのこと好きになっちゃうかも」
「うそだあ」
「なるよ」
「ならないよ」
「なる」
「うそ」
こういうのは好きだ。意味もなく言い合ったりすること。
花音ちゃんはふう、と大げさなくらいにため息をついた。
「おなかすいたね」
「ね。……あやね、今日はホテル」
「うん」
「花音ちゃんも一緒に泊まる?」
「えぇー?」って、花音ちゃんの声が裏返る。
そうだよね。冗談だよ。
もうちょっと、どうでもいいおしゃべりしたい気分だったの。
おしゃべりな先生のが、うつっちゃったのかな。
反対車線の車のライトで、一瞬私たちの車の中まで明るくなる。
花音ちゃんは眉をハの字にしてて、いいよ、って言っちゃいそうな、迷ってる顔してた。
来てくれたら嬉しいけど、眠れなくなっちゃいそうだから、やっぱり駄目だ。
真ん中のシートの上で、右手をふらふら持て余してたら、花音ちゃんが自然と握ってくれた。
この手の分は、掴んでいて良い分。
これ以上は、よくわかんない。
たまに、すごくたまにね、全部欲しいと思う。
でも、握りたいときに手が握れたら、それだけで十分だと、思ってたんだけど。
夜のタクシーはひゅんひゅん飛ばす。
目を閉じると、ふにふにした手の感触がよくわかる。
花音ちゃんの手はいつまでたっても赤ちゃんみたいなのに、もう子供の手じゃないのは、なんだか変だ。
「あや、これからは、一人でラジオいくのかなあ」
「かながいるじゃん。あかりも」
「あー、そっか。そうだね」
「みんなすぐ18になるし。あ、りかこはまだか」
「……そっかあ」
疲れたせいか、眠いせいか、なんだか涙が出そうだった。
顔を見られないようにそっぽを向いて、流れてく夜の景色を眺めるふりをした。
繋いでいる手から、テレパシーみたいなものが伝わっている気がする。
うまく言えないこの気持ちも、花音ちゃんにばれてしまう。
けど、それでも今は、手を離したくなかった。
寡黙な運転手さんは、帰りもやっぱり何も言わなかった。